カンボジアに関して

カンボジアに来たらキリングフィールドとトゥールスレン収容所は絶対に行くべき

トゥールスレン1

世界遺産アンコールワットで有名なカンボジア。
今でこそ、世界中の人々が訪れる一大観光地となっているこの国も、実は最近まで内戦がありました。内戦中、わずか3年8ヶ月だけで約300万人のカンボジア人が大量虐殺されました。しかも、それは同じカンボジア人によって行われたのです。
そんなカンボジアの歴史や、大量虐殺が行われた背景をポル・ポトという人物、クメール・ルージュとはという解説とともに、カンボジアの負の歴史を学べる2つのスポットを紹介させていただきたいと思います。

カンボジア歴史・内戦に関して

戦争
カンボジアは元々1863年~1953年までフランスの植民地になっていました。これには、シャムとベトナムという二重属国状態を脱するためにフランスの保護下に入ろうとした狙いがありました。
 
当初はフランスに属することで、カンボジアの伝統を守ることは出来ましたが、フランスがカンボジア人の代わりに中国人移民やベトナム人労働者などを社会経済開発の担い手として受け入れ始めたことから、カンボジア全体でフランス反発・独立意識が芽生え始め、1953年11月9日に国際世論を上手く利用しフランスから独立することになりました。
 
以降、フランスからの独立を達成したシアヌーク王が、王を辞退し、「人民社会主義共同体(サンクム)」の総裁として政権を握ることになりましたが、中国にならった自力更生による経済政策を失敗したことにより財政が困窮し、サンクム内でも意見の対立による内部分裂が生じます。その後、1970年3月、右派ロン・ノル将軍のクーデターによってシアヌークは解任されました。右派の政権奪取により、同時期に発生していたベトナム戦争がカンボジア領内へも拡大することになり、その結果カンボジアは長きにわたる戦乱時代に突入することになりました。
 
ロン・ノル将軍のクーデターによって北京に亡命することになったシアヌークは「カンプチア民族統一戦線」の結成を宣言し、共産勢力「クメール・ルージュ」と協力することを表明しました。そして、1973年以降カンボジア国内でカンボジア人同士による内戦が激化していき、国内は混乱、国民・国土は疲弊していきました。
 
1975年4月17日、クメール・ルージュを中心としたカンプチア民族統一戦線が首都プノンペン入城を果たし、事実上内戦は集結することになりました。しかし、クメール・ルージュの中心人物「ポル・ポト」をはじめとするポルポト派が急進的な共産主義製作を断行したために、カンボジア国内は再び大混乱を果たすことになります。このクメール・ルージュが台頭していた時代が、一般的に言われるカンボジア内戦の中心部分であり、多くのカンボジア国民にとって忘れられない「精神的外傷」として、今なお深く爪痕を残しています。
その後、1991年のソ連のペレストロイカの信仰や東欧社会主義諸国の崩壊により冷戦が終結していくと共に、カンボジアをめぐる国際環境も急激に進展していき、1993年9月23日の新憲法交付に伴い、翌日9月24日にシアヌーク国王を国家元首とする新生「カンボジア王国(Kingdom of Cambodia」が誕生することになりました。

ポル・ポトとは

戦争
本名はサロット・サル。「ポル・ポト」は「Political Potentiality(政治の可能性)」という意味のペンネームでした。しかし、彼自身はその本名(同一人物ということ)を認めることはなかったとされています。
 
1925(もしくは1928)年生まれの彼は、フランス・パリに留学した際に「共産主義」考え方に出会い、その後フランス共産党に所属。党内の過激派先輩らとの交流を重ねながら、盲目的なまでにその思想に感化されていきました。
 
帰国後はフランス語教師として働きながらも、秘密裏に共産党思想の同士と地下活動を進めますが、シアヌークによるフランス植民地解放の余波による共産党弾圧の動きに押され、プノンペンを脱出。しばらくはジャングルでの潜伏生活をすることになりました。
 
しかし、かつて自分たちを弾圧したシアヌークがロン・ノル将軍のクーデターによって政権を追われた際に、中国や北朝鮮などの社会主義国家の仲介を受けてポル・ポトとシアヌークは協力関係になります。ベトナム戦争がカンボジアに拡大したのに便乗し、ロン・ノル政権を打倒し、ついにカンボジア政権のトップになりました。
 
カンボジア国民はクメール・ルージュはよく知らないけど、今の生活を改善してくれるだろうと信じていました。しかし、彼がトップになってから3年8ヶ月で約300万人の命が奪われることになります。

ポル・ポト/クメール・ルージュの思想

彼らの思想を一言で言うならば、
「国民はすべて農業に従事し、知識人はすべて排除する。」
です。
社会主義(共産主義)とは「生産手段を皆で共有し、皆で平等に分け与える」という考え方ですが、彼はどこまでもこの思想を徹底していきました。通貨や市場、私有財産をすべて撤廃し、休日もなく、宗教や恋愛も禁止。国民には何も考えずにひたすら農作業時従事することを命じました。そうして作った米を外国に売っていくことで、工場などの設備を作っていくということも計画していたようです。
 
都市部で生活していた人々を農村部に強制的に移住し始めたポル・ポトは、今度は反乱分子となりうる知識人の排除をはじめていきます。その背景には、「知識は人々の間に格差をもたらす。国を指導する我々以外の知識人は不要」という考え方がありました。
 
この知識人の定義はひどく独裁的で、文字が読めたり、海外に行ったことがあったり、メガネをかけているといっただけで次々と処刑されていきました。そして知識人の代わりに、ポル・ポトが手足のように使ったのが何も知らない子どもたちです。ポル・ポトは悪質な思想に染まっていない、原子共産主義をよく理解するということから、子どもたちに兵士や看守、さらには医者などの仕事に就かせました。専門的な知識が必要となる、医療をよく理解していない子どもが手当をすることで余計に悪化させ、死者が増加するということもあったようです。
 
ポル・ポトがそうした国策を進めていく結果、子どもが大人を殺していくというような異常な状況が生まれました。最終的にカンボジアから亡命した人々が結成した軍隊とベトナム軍がポル・ポト政権に攻めて1979年に首都プノンペンを陥落させたことでこの状況は一旦落ち着きました。ポル・ポト政権から開放されたカンボジア国民の約85%は14歳以下の子どもだったというデータは、当時のポル・ポト率いるクメール・ルージュの影響力の高さを窺い知る事実だと思われます。

トゥールスレン博物館・刑務所(S21)とは

トゥールスレン2
ポル・ポト政権時代に「反革命分子(スパイ)」とみなされた人々が家族とともに捉えられ、激しい拷問が行われた場所です。粛清の舞台として利用されていたここは当時「C21(SECURITY OFFICE 21)」と呼ばれていました。2018年現在はポル・ポト政権の残虐行為を構成に伝える博物館として公開されています。
トゥールスレン4
元々高校の校舎として使われていた建物のうち、正面向かって1番左A棟は尋問室。続くB棟には収容された人々の顔写真が部屋の壁一面に貼られています。C棟は1階,2階と狭い独房が並び、手足をつないだとされる赤く錆びた鎖を見ることが出来ます。3階には雑居房跡がります。D棟には残酷な拷問の様子が描かれた絵や拷問に使われていた器具が展示されています。
トゥールスレン3
ここでは記録だけでも約2万人が収容され、その内生還できたのはわずか7人のみということが確認されています。虐殺されたのは農民、技術者教師、僧侶、学生などのあらゆる職業の罪なき人々でした。人々は言われなき罪を着せられて投獄され、激しい拷問の後に尋問を繰り返し行わされ、強制的に犯してもいない罪に関して白状させられキリングフィールド(後述)にて、殺されました。

【スポット情報:トゥールスレン博物館】
住所:St 113, Phnom Penh 12304(ផ្លូវលេខ ១១៣, រាជធានី​ភ្នំពេញ 12304)
電話番号:023 665 5395
会館時間:8:00~17:00
入場料:$5/(+$3で日本語音声のオーディオ機械を借りれます。)
位置URL:https://goo.gl/maps/eTBBZhw9Uqo

キリングフィールドとは

キリングフィールド1
キリングフィールドはポルポト政権時代にカンボジア国内約300箇所以上作られた処刑場です。最も有名なキリングフィールドは首都プノンペンから南西に約15kmのチュンエク村にあります。
キリングフィールド2
トゥールスレン刑務所に収容された人々は、全員ここに運ばれ処刑された後、遺体は村の129箇所に埋められました。その一部が掘り返され、地面にはそのときに出来た大きな穴がそのまま残っています。また、キリングフィールドの中央には8985柱の遺骨を安置した慰霊塔が建てられておいます。写真中心の展示室もあり、ポル・ポト政権時代や遺体が掘り出された当時の写真を確認できます。
キリングフィールド3
入り口で借りることの出来るオーディオガイドには施設の解説のほかに、生存者たちの体験談やクメール・ルージュの元番兵で刑執行人の証言なども収録されているので、時間はかかりますが、最後まで耳を傾けるのがオススメです。
 

【スポット情報:キリングフィールド(プノンペン)】
住所:ផ្លូវជើងឯក, Phnom Penh
電話番号:023 305 371
会館時間:8時00分~17時30分
入場料:$6(日本語音声のオーディオ機械付き)
位置URL:https://goo.gl/maps/TwnebudmF8u

地雷博物館とは

地雷博物館1
ポル・ポトは「地雷を最高の兵士」と呼び、他国からの侵略を防ぐために大量に自国の領土内に埋めていきました。その結果、多くのカンボジア人が亡くなったり、怪我を負うことになりました。2018年に入った今は徐々に少なくなっては来ておりますが、それでも地雷による被害の影響は大きく、地雷の除去活動は続けられています。
トゥールスレン1
シェムリアップにある地雷博物館はクメール・ルージュの元戦闘兵であるアキー・ラー氏が政府の援助を得ずに自力で建てた博物館で、除去作業後に安全処理を施された約5000個の地雷が展示されています。タイミングが合えばアキー・ラー氏に会うことも出来、直接お話を伺うことも出来ます。

【スポット情報:地雷博物館】
住所:バンテアイスレイ遺跡の近く
電話番号:097 5422 242 / 016 520 808
会館時間:7時30分~17時30分
入場料:$5
位置URL:https://goo.gl/maps/TwnebudmF8u

まとめ

いかがでしたでしょうか。
私個人の意見となりますが、外国を訪れる時にはその国の歴史を知っておいたほうが良いほか、その国の明るい部分と暗い部分両方を知っておくべきだと思います。
当たり前のことですが、昔があるからこそ今があります。
私達は当たり前のように毎日生きています。
しかし、昔のカンボジアでは明日を生きていられるかどうかわからない状況で、人々は生活をしていました。それでも生きていけたのは家族に会うためだったり、いつかこの生活が終わると信じ、明るい未来が待っていると希望を持っていたからです。彼らはそんな状況で自分自身の人生に対して常に本気だったと私は思っています。
カンボジアの負の遺産を見ることで、カンボジアの今を比較して知ることだけでなく、私達自身の人生を見つめ直すいい機会になるのではないでしょうか。
ぜひ、カンボジアに来られる前にこちらの記事を読んでいただけたなら幸いです。

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ahtapae
旅行会社員として東南アジアに6年在住/旅初心者向けの記事や業務効率化系の記事を書いています/趣味は写真撮影とクラウドファンディングで新製品と出会うこと。他者貢献をテーマにアナタに役立つ情報を届けていきます。